- 生誕100年記念
京都の風情を重んじ文化を大事に思う方は、ぜひご購入のご検討下さい。
※旅館、ホテル、医院、料理店の方、応接室にも最適❣️
今回の東山魁夷氏1992年9月生前の時にご本人の監修の元による「年暮る」は、本物です。
(白枠に印が有ります) こんなご時世だからこそ、間違いなく本物の価値が生きる❗️
※東山さんの「年暮る」がお好きな方は是非、この時に本物をご購入下さい❗️
現在、銀座の画廊さんではネットでも532万で出ているようです。
1999年12月に、百貨店で東山様の個展があり、初「年暮る」販売により購入したものです。
その当時から、20年近く大事に保管していたものです。
2019/12の百貨店の東山魁夷氏の個展では「年暮る」の作品が、5日後には603万円で売約済みとなっております。百貨店の方から、「年暮る」は、ご本人の印の監修の下に原画からリトグラフが制作された、大変な希少価値で金額も年々高くなっており、中々手に入らない作品です。
やっと3年して手に入りましたので、出展致しました。お陰様で不思議と出せば売れるお品なんです。描いた文庫「京洛四季」連作の1点とのエピソードは有名です。
1960年代、ノーベル文学賞を受賞された作家・川端康成氏が東山魁夷氏に「京都は今描いておいていただかないとなくなります。
京都のあるうちに描いておいてください」と言われ、描いた1点です。
※2021/02/014に百貨店、記念館、美術館に1992年9月生前の時の「年暮る」は、本物です。確認済です。
画寸法:442×606mm
紙寸法:540×730mm
額寸法外枠:640×800mm
窓寸法:640×480mm
※ 状態【希少古物】
購入後は、一度も飾らず大事に保管してありましたが、額、箱などは、多少の細かいキズ、スレなどはあります。絵、事態はとても良好です。
高価なものですのでお手渡しなど、一度ご確認も可能です。
※他、画廊にも出しております。
※Sold Out※ 東山魁夷 「年暮る」リトグラフ※ご本人の監修によるオリジナル版画作品※
大正10年 中学1年生 1984年・75歳
1956年 日本芸術院賞授賞式
東山魁夷という雅号
学校を卒業する時に「魁夷」という号をつけました。「東山」は生まれつきの名前
で、なんとなく日本的なやさしい感じです。それは私の生来の性格でもあるのです
が、芸術はなかなかやさしさだけでやっていける問題ではないという自覚も出はじめ
て、山国などに行って厳しさを追求している時代ですので「東山」の後へ優しい感じ
の雅号をつけると骨がなくなってしまうような気がして、思い切り反対の雅号をと考
えて「魁夷」とつけたんです。「槐 えんじゅ 」という字が好きなのですが、大正時
代に早くなくなった画家の村山槐多 かいた(本名)」の字をまねするのも具合が悪
いと思い、「魁 さきがけ」という字を選びました。
また、「東山」が非常に字画の少ない字ですので、そこへ「魁」という画数の多い、
ごつい感じの字を持ってくると、次の字は下が開いていないとバランスが悪いので、
「夷」という字を持ってきたのです。そしてまた、「東山」は音が長いですから、名
前は簡潔に三音ぐらいで読み切る方がいいと思って「魁夷 かいい」とつけました。
結局、「東山」というやさしさと「魁夷」という厳しさと、その二つのミックスが自
分にとっては必要だと考えたのではないかと思ます。
「芸術と私」『美と遍歴東山魁夷座談集』芸術新
聞社1997年
東山魁夷 略年譜(ひがしやま かいい 1908-1999)
1908(明治41年) 7月8日、船具商を営む東山浩介、妻くにの次男として横浜に
生まれる。本名新吉し、幼いころから絵を好んで描き、
早くもその才能が開花し始める。
1911(明治44年) 一家で神戸市に転居。
1921(大正10年) 13歳 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫高等学校)に入
学。中学の恩師からの勧めがきっかけで画家になることを決意する。
1925(大正15年)4月、東京美術学校日本画科入学。
1926(大正15/昭和1)18歳 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入
学。夏、信州を旅し、山国の雄大な自然に強い感銘をうける。
1929(昭和4年)兄国三死去。10月、帝展に初出品した《山国の秋》で、初入選。
1931(昭和6年) 23歳 3月、東京美術学校日本画科を卒業。引き続き研究
科に進み、結城素明に師事して「魁夷」を雅号とする。
1933(昭和8年) 25歳 東京美術学校研究科を修了。八月、渡欧の途につ
く。10月、ベルリンに到着。ベルリン大学外国人語学部で
ドイツ語を学ぶかたわら、足繁く美術館に通う。
1934(昭和9年) 26歳 ヨーロッパ一巡の旅。日独交換学生に選ばれ、西洋
美術史を学ぶ。
1935(昭和10年) 27歳 9月、父の病気の報に、残り1年の留学期間を断念し
て帰国。
1940(昭和15年) 32歳 川崎小虎の長女すみと結婚。
1942(昭和17年) 34歳 父浩介死去。
1945(昭和20年) 37歳 招集され、熊本で対戦車攻撃訓練を受ける。母くに死
去。 38歳 1946(昭和21年)弟泰介死去。
1947(昭和22年) 39歳 10月、第3回日展に《残照》を出品、特選を受賞。
政府買い上げとなる。この作品によって、以後、
風景画家として立つことを決意。
1950(昭和25年) 42歳 5月、はじめて日展で審査員を委嘱される。10月、
第6回日展に《道》を出品、好評を得る。
1960(昭和35年) 52歳 4月、宮内庁から依頼されていた東宮御所の壁画
《日月四季図》が完成。東宮御所の壁画《日月四季図》完成。
1960(昭和35年) 54歳 4月17月、夫婦で、北欧の旅、デンマーク、ス
ウェーデン、ノルウェー、フィンランドを写生旅行。
1962(昭和37年) 54歳 4月17月、夫婦で、北欧の旅、デンマーク、ス
ウェーデン、ノルウェー、フィンランドを写生旅行。
1968(昭和43年) 60歳 4月、新宮殿壁画《朝明けの潮》が完成。皇居新宮
殿の大壁画完成。「京洛四季」を発表する。
1969(昭和44年) 61歳 1月、《朝明けの潮》の制作および前年の「東山魁
夷展京洛四季展」によって毎日芸術大賞を受賞4月から
9月にかけて夫妻で、ドイツ・オーストリアの古都を巡る。 11月、文化勲章を受章、
あわせて文化功労者に選ばれる。
1973(昭和48年) 65歳 8月、香川県文化会館にて瀬戸内美術館連絡協議会結
成 第1回事業 東山魁夷展を開催、北欧風景、
京洛四季、ドイツ・オーストリアの旅、白い馬の見える風景の4つのテーマによる150
点余を出品。
1974(昭和49年) 66歳 3月、日展理事長に就任。(~1975年)1975年(昭和
50)5月67歳、唐招提寺御影堂の第一期障壁画
《山雲》《濤声》が完成、6月3日に奉納される。
1980(昭和55年) 72歳 2月、第2期障壁画の三題《黄山暁雲》《揚州薫風》
《桂林月宵》が完成、6月に唐招提寺に奉納する。
1981(昭和56年) 73歳 東京国立近代美術館で「東山魁夷展」開催。11月、唐招
提寺鑑真和上像厨子絵《瑞光》を奉納。
1995(平成7年) 長野県信濃美術館 東山魁夷館ほかで、「米寿記念 東山魁夷
展」開催。
1999(平成11年) 99歳 5月6日、老衰のため逝去。奇しくも鑑真和上と同じ命日
であった。
従三位、勲一等瑞宝章を贈られる。その後2004年横浜美術館、兵庫県立美術館で「東
山魁夷展-ひとすじの道―」を
開催。
2005年4月、香川県立東山魁夷せとうち美術館が開館。
東山魁夷の《年暮る》も大好きな作品です。
1960年代、作家・川端康成から「京都は今描いておいていただかないとなくなります、京都のあるうちに描いておいてください」と勧められて心を動かされた魁夷が手がけた「京洛四季」連作の1点です。当館が所蔵する4点の「京洛四季」のうち、鷹ヶ峰の深い緑を背に満開の桜を描いた《春静》、魁夷の定宿であった京都ホテル(現・京都ホテルオークラ)の屋上から俯瞰し、大晦日の雪降る京の町屋を描いたこの《年暮る》の2点は、山﨑種二がその当時に入手し、のちに当館に寄贈した作品です。
その後、《緑潤う》と《秋彩》がそれぞれ当館の10周年、20周年記念にあわせて揮毫(きごう)され、約20年の時を経て魁夷の描く京の四季が当館にそろいました。中でも《年暮る》は、「東山ブルー」と称された青(群青)が美しく、静寂の中にしんしんと降り積もる雪の音、おごそかに鳴り響く除夜の鐘の音まで聞こえて来そうな作品です。人物は描かれていませんが、手前の民家の灯りに人の営みと温もりを感じませんか。年末には毎年《年暮る》を観たいというお客様が多くいらっしゃいます。そのときどきの自ら置かれている状況によって捉え方や感じ方も異なってくるため、絵との出会いはいつだって一期一会。ぜひ素敵な出会いの機会を持っていただける美術館でありたいと考えています。
山種美術館のシンボルマークには、日本の伝統色の一つであり、日本画と関係の深い色を使用いたしました。この度、選定した色は、近代・現代を代表する日本画家として活躍した東山魁夷が好んで使用していた群青の岩絵具をイメージしたものです。
静けさに満ちた京都町屋の情景を描いた《年暮る》などにも使われている美しい青色は「東山ブルー」とも称されています。東山家に現在も保管されている、魁夷が実際に制作に用いていた群青の天然岩絵具と色見本を合わせながら、マークの色を選びました。
「群青」とは?日本画には、鉱石を砕いて作られる岩絵具が使用されています。藍銅鉱(アズライト)を原石とする群青は、その中でも産出量が少なく、高価であるため宝石のような絵具といわれます。